同窓会だより

同窓会の55年ー外から見えない事象そしてこころ

創立百周年記念誌「山門百年史」より 

平成24年(2012)福岡県立山門高校が学校創立百周年を迎えるにあたり、同窓会は記念の「同窓会会員名簿第6号」を発刊しました。今回の名簿には現存している資料、関係者からの聞き取り、私が体験し、記憶している事柄等を整理し初めて年表にまとめ「同窓会の歩み」として掲載しております。ここに認めた拙文は年表「同窓会の歩み」を補完かする目的でその背景にある事象を記したものです。

黎明期[昭和31年(1956)~昭和47年(1972)]・・・同窓会の創立そして継続

学校創立50周年が6年後に迫った昭和31年(1956)5月、筑後市在住の池上尚司先生が第12代校長として着任されました。池上校長は、学校には「卒業生の集まり」である同窓会が是非必要との考えに立って関係者への働きかけをされ、その気運は昂揚、地元事情を熟知された塚本祐吉先生が同窓会係を引き受けていただいて、学校側の熱意ある取組が行われ、昭和32年(1957)8月4日に創立総会が開かれました。山門高校は前身が旧制女学校だったこともあって、その頃卒業生の大多数は女子であり男子は昭和27年(1952)3月卒が第1回の卒業生でしたから、年令も未だ23、4才に過ぎませんでした。

その様な事情から初代会長は当時母校の茶華道嘱託講師だった、大正11年(1922)卒の野口勝代氏にお引き受けいただくことになりました。学校創立は明治45年(1912)ですから丁度45年目に同窓会が誕生したことになります。

その後も塚本祐吉先生の同窓会育成の情熱は萎えることなく、引続き翌年から毎年総会を開催していただき、併せて創立時に発行していただいた機関紙『山門同窓会報』は、学校創立60周年記念事業の準備が始まった昭和45年(1970)7月の第14号まで継続していただきました。その間、昭和36年(1961)には、塚本祐吉先生の労作である『同窓会名簿第1号』(編集後記・塚本祐吉先生記)が発刊、初めての名簿作製の苦労は並大抵のことではなかったろうと推察されます。昭和42年(1967)には内容を充実させた『改訂版第2号』(編集後記・教頭宮尾和夫先生記)が発刊されました。塚本祐吉先生は更に昭和49年3月の『同窓会名簿第3号』(編集後記・塚本祐吉先生記)の発刊までお世話をしていただきました。

ところで、同窓会創立時の規約第5条には支部を置くことが記されており、支部規約(案)も準備されていました。同窓会創後間もなく、旧制女学校生を中心に柳川市や大牟田市で支部結成の動きがありました。更に3年ほど経って東京都において、8年後には福岡市においてそれぞれの地域在住の同窓生が集まって関東支部、福岡支部として呱々の声をあげました。しかしいずれも事務局機能の不備と役員の勤務地の移動等のため、永続できず休止状態になりました。

昭和37年(1962)には学校創立50周年記念事業として、近隣の高校に見劣りしない校舎に増改築する資金を県に寄付する目的で、同窓会が初めて募金活動を行いまました。

学校創立60周年が二年後に迫った昭和45年(1970)、県による新体育館建設が決まりました。学校側は狭い校内敷地を有効利用するためピロティ式の新体育館建設を要望、父兄負担の軽減を進めている県との交渉は難航しましたが、ピロティ部分の建設費用を同窓会が負担することを条件に認めることになりました。そこで同窓会は学校創立60周年記念事業として募金活動(一口1,000円)を行うことを決定しました。

当時校長は第15代是松茂男先生、教頭は地元在住で山門方式生徒指導の核と言われた斉藤敏郎先生でした。当時校外にあった校長官舎で会合が重ねられ、是松・斉藤両先生の熱意にうたれた先生方の真剣な協力をいただき、同窓会は必死に取組んで募金目標を達成し県との約束を果たしました。

自立期[昭和47年(1972)~平成10年(1998)]・・・同窓会自主運営

創立から15年経った同窓会は学校創立60周年記念同窓会を機に、学校側の同窓係として長年ご尽力いただき、その基盤をつくっていただいた塚本祐吉先生だよりの同窓会運営から脱皮の時を迎えました。

その頃私は、同業者であった野見山璋一氏(当時飯塚市・野見山本家酒造㈱専務)と懇談した際に同窓会の話が出て、野見山氏から「自分の母校 嘉穂高校は40才になった同窓生が総会の当番幹事としてお世話することが決まっていて毎年盛大な総会が行われている、自分も当番幹事を終えたばかりだ。」ということを聞きました。

このことにヒントを得て、当時副会長であった私は「毎年40才になった卒業年次の同窓生が当番学年として総会の世話をすること、そして男子の第1回卒業生(昭和27年3月卒)が満40才を迎える二年後の昭和49年(1974)総会から適用すること」を昭和47年(1972)9月30日の学校創立60周年記念同窓会総会に提案し満場一致で承認されました。このことが「山門高校の卒業生は一生に一度、満40才を迎えた年に同窓会総会をお世話する」という良き伝統となり、その後今日まで40年間受け継がれております。

創立以来会長をつとめていただいた野口勝代氏は、この記念総会で勇退の意向を表明されましたが、その後の会長選出には少々時間を要しました。

それは山門高校60年の歴史の中で昭和23年(1948)の学制改革後男女共学の普通高校となって既に20年を経過しており、二代目の会長は男子の第1回卒業生を含む、昭和27年3月卒より選出してほしいとの強い意向があったからです。当時昭和27年3月卒の卒業生は三八、九才の働き盛りであり、引き受けていただける方がなかなか見つかりませんでした。

同窓会を創立以来支えて下さった塚本祐吉先生のご助力と必死の説得で瀬高町在住の角博介氏に第二代会長をお引き受けいただくことになり、昭和49年(1974)の総会で承認されました。

満40才になった卒業生が当番学年として担当する総会は、昭和49年(1974)を第1回として開催され、その後当番学年が実行委員会を組織して運営する様になりました。

昭和55年(1980)までは校内食堂での小規模な総会でしたが、昭和56年(1981)の総会を担当した昭和34年3月卒の実行委員長黒田英輔氏は、昭和54年(1979)の総選挙で同級生の古賀誠氏が、衆議院議員に当選し、山門高校初の国会議員が誕生したことを受けて、総会を盛大にすることを提案。

この年より当時の校長永田茂樹先生のご理解をいただいて、新体育館での開催が実現しました。

この後、総会は年々隆盛になり今日に至っています。

同窓会名簿は10年に一度は見なおさないと会員の消息が把握困難になるといわれますので、学校創立60周年記念事業の一つとして同『窓会名簿第3号』(編集後記・塚本祐吉先生記)の発刊が進められ昭和49年(1974)3月に完成しました。この頃までは塚本祐吉先生あっての同窓会であり、そのご尽力のお蔭で今日の基盤ができたと申し上げても過言ではありません。

昭和50年代の初頭に同窓会福岡支部の活動が再開されましたが、その中枢にあった七條悌八郎、冨安昌雄の両氏は後述の如き事情で相次いで同窓会会長を引き受けていただくことになったため、福岡支部の継続に支障が生じ再び休止状態になりました。

昭和61年(1986)春、角会長が不意の病で倒れ、不帰の人となられました。

そこで急遽次の会長の人選が必要となり、昭和27年3月卒の中から福岡支部の顧問としてその中枢にあった七條悌八郎氏にお願いして、引き受けていただくことになり5月総会で承認されました。

昭和62年(1987)は学校創立75周年の年でした。同窓会は記念事業として校訓碑を建設、書は地元書家久冨光人先生、デザインは同窓生江上昂介氏によるものです。校訓碑の御影石は表面が原石のままの面と磨かれた面にデザインされています。これは荒削りの若者が高校生活を通して人間性豊かに成長する姿を表しています。そして、15年振りに発刊した「同窓会会員名簿第4号」は初めて同窓会役員の手によって完成しました。

平成2年七條悌八郎会長が病魔に襲われしばらく入院後急逝されました。現職会長が二代続いて死去するという異常事態を目の当たりにして、次の会長は福岡支部の支部長である冨安昌雄氏にお願いするしかないということになり遮二無二引き受けていただき、平成2年(1990)の総会で承認されました。

二度あることは三度あるといいますが平成6年(1994)の暮れ、会長在任5年目の冨安昌雄会長が人間ドッグの検査で深刻な病巣がみつかり入院されることになりました。

冨安会長は自分の前任の二人の会長が現職のまま急逝されたことを気に病まれ、「もし自分が会長職のまま万が一のことがあるとおそらく後の会長の引き受け手はなくなり、同窓会の存亡にかかわる問題になりかねないので、ここは何としても自分が元気な今の中に会長職を交代してもらいたい」との相談があり、当時副会長であった私がお引き受けすることになりました。

平成7年(1995)は役員改選の年でした。表向きはスムーズに引き継いだ様に見えますが、以上の様な経緯がありました。冨安昌雄氏は間もなく他界されましたので、今にして思えば男子第1回卒業生の中から出ていただいた第2、3、4代の3人の会長は、52才56才、62才の若さで相次いで鬼籍に入られたのであります。同窓会に不運が続いた昭和の末期から平成の初期には学校側にも不幸なめぐり合わせがありました。

昭和55年(1980)4月に着任された第19代永田茂樹校長は、県教育委員会に臆しない立派な校長でした。昭和46年(1971)ピロテイ式新体育館の竣工に際し、同窓会が記念碑を設置しましたが、その文面が不適切として県教育委員会の指摘をうけ、撤去して倉庫に放置していたのを校内巡回中にみつけて、体育館前庭に復帰していただいたこと、新体育館での同窓会総会開催を許可していただいたこと、そして同窓会館建設資金準備のため同窓会入会金の新設について適格な示唆をいただき、そのお蔭で同窓会館建設に道筋がついたことの三点において同窓会に貴重な足跡を残された校長でした。

しかし在任中に病魔の侵すところとなり、治療後一時復帰されたもののその後休職、山門高校在籍のまま逝去されました。

平成3年(1991)4月に着任された第24代矢ヶ部晃幸校長は大変気合いの入った先生で、第19代永田茂樹校長とは若い頃福岡県の教育正常化のために決起し新高等学校教職員組合の設立に貢献された同志でした。奇しくも同じ病魔の襲うところとなり入院休職後、一時回復された後山門高校を最後に退職され、ほどなく不帰の人となられたのであります。

平成8年(1996)11月 昭和34年3月卒の古賀誠氏が運輸大臣に就任されました。同窓生初の大臣誕生をどのように祝賀するかが理事会の話題となり、話し合いの結果、平成9年5月の総会行事の一つとして古賀誠運輸大臣就任披露行事を行うことに決まりました。この行事で発意から行事遂行まで熱心にかかわりを持ってくれたのは、理事の上津原武次氏(昭和35年3月卒)でした。

形成期[平成10年(1998)~現在]・・・同窓会の形と内容の進化

創立時から昭和45年(1970)の第14号まで続いた機関紙「山門同窓会報」は、その後中断したままになっていましたのでこれを「山門同窓会だより」として発行することとし、平成10年(1998)に第1号を、その後毎年継続し、今年(平成24年)3月には第15号を発行しました。

当初は役員主導で編集していましたが、最近は前年の総会担当実行委員会が中心となって編集し3月1日の卒業式の日に発行、まずその年の卒業生に配付、同時にインターネットの同窓会公式ホームページに掲載しています。

平成13年春、休眠状態だった支部の活動が相次いで復活しました。福岡では藤丸修氏(昭和38年3月卒)を中心に「福岡山門会」として発足、同窓会福岡支部を継承することになりました。

東京では藤光ミエ子氏(昭和38年3月卒)、宮前総子氏(昭和32年3月卒)、橋本国昭氏(昭和33年3月卒)、松尾武昌氏(昭和33年3月卒)、古賀誠氏(昭和34年3月卒)、などが核となって関東地区一円の同窓生に呼びかけていただき総会を開催、関東支部としての活動を再開していただきました。

両支部ともその後活発に活動を継続し、今年(平成24年)は4月に福岡支部総会が、9月に関東支部総会が賑やかに開かれました。

平成14年(2002)、学校創立九〇周年記念事業として取組んだ同窓会館建設のための募金(一口5,000円)には同窓生等2,580名より3,186万円余りご協力をいただきました。片や昭和47年に年20万円始めた会館建設基金の積立は、第19代永田茂樹校長のご配慮で昭和59年以降毎年120万円余の積立が可能となり平成14年に3,572万円余となりました。お蔭様で募金と基金を合わせた資金で、校章の柏の葉に因んで命名された同窓会館「柏友館」が完成しました。募金協力者のご芳名は銅版に刻し「柏友館」ロビーに掲示しています。

「柏友館」は同窓生が自由に利用し、会議を開くことが可能であり、今日までの関係資料や毎年の総会担当実行委員会が作った準備資料が保管されていますので、事務局としての機能も発揮できるようになりました。

平成23年(2011)10月、インターネットに山門高校同窓会公式ホームページを開設、今や世界各地で活動する同窓生がリアルタイムで情報がみられるようにしました。同窓会のホームページは福岡県立山門高等学校公式ホームページとリンクしていますので、いずれからもアクセスできます。

今年(平成24年)9月、学校創立百周年記念事業の一つである、この一年間に活躍した生徒代表10名の東京研修が実施されました。この事業は関東地区同窓生との交流を目的としていましたので、関東地区同窓会(関東支部)総会に参加し、生徒全員がスピーチ、参加同窓生と懇談しました。更に、同窓生の中から二人の先輩、国権の最高機関である国会の重鎮議員として活躍中の古賀誠氏(昭和34年3月卒)を国会議事堂に、先頃まで日本銀行政策委員会審議委員として日本の金融政策決定の重責を担い、現在APECビジネス諮問委員会日本委員である三菱商事株式会社常任顧問の亀崎英敏氏(昭和37年3月卒)を三菱商事株式会社、本社に訪ねました。日本の中枢にあって活躍する二人の先輩の姿を今回東京研修に参加した生徒達が50年後の自分達の姿としてとらえ、大志を抱いて夢と希望をふくらませ、山門高校で学ぶことに自信と誇りをもって努力を続け、学校全体に英気を漲らせてくれれば、この事業を支援した同窓会は大きな役割を果たすことになります。

今年(平成24年)学校創立百周年を迎えた山門高校の卒業生は22,392名を数えます。そして全同窓生にとって母校山門高校は生涯を通して自分の履歴を支える大切なモニュメントであります。願わくばそのモニュメントはいつまでも光輝いてほしいものです。

             学校創立百周年記念誌(文責)同窓会会長  板橋 元昭 「山門百年史」より抜粋

                     

 

 

 

 

 

 

                                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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